人間の基本をつくる時期 (1992年12月後援会だより掲載)
津守 眞 (当時)学校法人 愛育学園 理事長 (現在)学校法人 愛育学園 顧問
私共の学校を訪ねてこられる方が、しばしば、ここの子どもたちは本当にいきいきした表情と子どもらしい動きをしていると感心されます。私共は日頃それぞれの子どものあるがままを尊重し、人間として堂々と生きてほしいと願っていますので、たまたま訪ねられた方にこう言われると力づけられます。
どのようにしてそれがなしえるかというと、なかなか努力と工夫を要します。まず、第一に、子ども自身が、毎日、ここで生きていてよかったと思えることが根本です。人並み以上に感受性の強いこの子どもたちは、自分が本当に周囲から存在を認められているかどうかに敏感です。私共大人のちょっとした心の動揺を鋭く察知します。そこでこれは大人の側の問題です。
親も私共も経験することですが、バスや電車の中で子どもが大きな声を出したりすると、一緒につき添っている大人は困惑します。しかし、困惑のあまり子どものその時の気持ちのありようまで否定してしまうとなると、それは教育の危機です。私は教育というものはもっと積極的で肯定的なはたらきだと思います。周囲を困らせる子どもの行動にも子どもなりの理由があります。かたわらの大人がその時の子どもの気持ちを深いところで認めてあげようとするなら、子どのも心の中にやがて、周囲の人々に対する暖かい関心が育って行きます。そして自分から煩雑な社会のしくみに心を開いて行くのです。それには時間と年月がかかりますが、私共はこの学校で数えきれないくらいこのことを実際に見ています。
私は実習生に、子どもと深いところで交わるようにといつも言っています。同じように子どもの傍らにいても、浅い所でつき合っているときと、深い所でつき合っているときとあります。またその中間もあります。それによって成長の仕方が違ってきます。浅い所というのは偏見や先入観や常識に執らわれているときです。中間というのは不安や心配に心が乱されているときです。だれでも生活にはそういう部分がありますが、子どもの傍にいるときにはそれは脇にあいて、自分の気持ちを転回させ、明るく過ごせるようにしたいものです。深い所で交われるときは子どもと気持の通じ合ったやりとりができるときです。子どもの悩みに近づき、子どもの喜びをともに愉しみ、一日一日の生活を子どもと一緒に工夫することができます。
<中略>
私共の養護学校では普通の学校のような授業形態をとらないので、このことに不安を覚える人もあります。けれども卒業した子どもたちは、中学、高校、更にその先に進んだとき、性格がよいとほめられることが少なくありません。だれもが一緒に生活できる社会をつくるのに、人間として生きる基盤ができていることは何よりも大切だと私は考えます。そうなるには、家庭で、学校で、困難なときをお互いに支え合って、長い年月にわたるこまやかな配慮を必要とします。この点で、幼児から小学校の時期は、人間の基本をつくる時として、生涯の中でも特別な時期なのだと思います。