インクルージョンの時代の学園

エッセイ   インクルージョンの時代の学園  (1998年12月)
                                      津守 眞 (当時)学校法人 愛育学園 理事長 (現在)学校法人 愛育学園 顧問

     

だれでも自分に出来ることを精一杯にやって、皆からそれが認められるとき、その場は活気に満ちて明るく、新たなものを生み出す所となります。学校もまたそうです。朝、登園した子どもが、自分がしようと思うことをしはじめ、最後までそれをやり遂げることができるとき、子どもにも大人にも創造的な一日が展開します。水で遊び始めたひとりの子どもの傍らに実習生が長い時間一緒に座り込んでいます。落ち着いてそばにいると、子どもの指がつくりだす小さな水の音、子どもの身体の中に動いている海の波を感じます。物質とふれる遊びの中に芸術があり、思考があることを私共は発見します。大人と子どもの相互の共感が一日を作り、未来を展開させます。

どうしても外に行きたい子どもがいます。大人も子どもも少しおしゃれな服に着替えて一緒に出かけます。素敵なショーウインドウを見ながら、いろんな人にまじって街を歩くことは、社会の一員の自覚のはじまりです。花びらを集めている子どもがいます。掌にのせてじっと見つめているその瞬間の世界には、明るく暖かな静けさがあります。その瞬間を一緒に味わうとき、子どもの心の深みが伝わってきます。私共の傍らに子どもがいるということが、大人の世界にぽっかりと別の世界を開いてくれます。

子どもの将来を考えたら、そんなロマンチックな考えは捨てて、厳しく準備教育をしなければいけないとこれまで言われてきました。できないことをできるようにさせるのが教育だという考え方です。特に障害をもつ子どもについてそう言われました。その結果わかったことは、涙ぐましい努力をしてようやく少しできるようになったとたんに、もっとできる人が隣にいて、それ以上うまくはできない、劣等感すらもってしまうということでした。できないことをやれるようにするのでなく、できることを自信をもって堂々とやれるようにするのが教育ではないかと、いまや私共は気が付いています。

こう言う時に私がすぐに思い出すのは、二年前に米国で見た新しい福祉の姿です。銀行の一隅で、紙をちぎるのが好きな人が、不要になった紙をひたすら切っていました。銀行員たちはこの人と一緒に仕事をすることが、銀行という緊張感に満ちた職場に人間らしさを与えていることを自覚していました。別のレストランではことばを話さない笑顔の店員がいなかったら店はやっていかれないと話していました。日本ではまだ大人の福祉はそれへの途上にあります。異質な人を一緒に含めて共生するインクルージョンの時代、幼稚園や学校の教育の考え方も変化しつつあります。学校の中でひとりひとりが自分らしく生き、それを認め合うときに、創造的な学校が、ひいては人間らしい社会がつくられます。この学校の子ども達はその担い手です。