一緒に人生を歩み学ぶ仲間

エッセイ   一緒に人生を歩み学ぶ仲間 (愛育学校だより 2005年12月号より)
津守眞(当時)学校法人愛育学園理事長(現在)学校法人愛育学園 顧問

   

この学校の子どもたちは、言葉で話すのは苦手な子が多いけれども、人間と世界の真実を見抜く目をもっていることは抜群である。
日頃、私は、子どもがし始めたことを先にして、それを生かすのが保育であり、教育であると言っているが、大人がぜひ伝えたいと願う精神のメッセージをどうやって伝えるか、私はひそかに苦心して来た。年を重ね、最近では肩車できなくなった私は、本を読むのはどうだろうかと考え、いろいろ試みた。アンデルセンの人魚姫はよかった。それを喜んだのはSくんで、ときによって頑固なSくんがどんなにロマンチックな心情を抱いているかが分かった。だがそれはあまりにお伽話に思えた。次に私が出会ったのはピノキオだった。ディズニーの縮刷版でなく、原文に忠実な岩波少年文庫のは長い物語だが、これを好んだRくんは、五章も六章もいちどきに読んで飽きなかった。トランポリンで遊んでいる最中に私を見て、ささやくように「ピノキオよむ」と伝えてくれたのはうれしかった。さすがに児童書の古典である。
本読みの一番最初のきっかけをつくってくれたのは、三年前に亡くなった「ののさん」だった。夜眠れないこの子に何か良い本をと考えながら本屋で偶然であったのが、「かみさまってどこにいるの?」(菊池勝子え、寺家村博やくぶん、コイノニア社)だった。それはあまりに胸にこたえるので私はその後だれにも読んだことはない。それから私は自分が子どものときから慣れ親しんだ「聖書物語」を読んだらどうだろうと考えた。学校でもベッドの上で過ごしているHくんにこれが向くかどうか自信のないままに創世記を読んだ時の彼の目の輝き。長子の権利を得るために肌の滑らかなヤコブが毛皮を着て、毛深い兄エサウに扮し父イサクを欺く箇所で、いつも言葉を発したことのないHくんがニヤリと笑った。こんなことがあり得るのかと、先入観をもって子どもを見てはならないと常日頃言っている私自信を恥じた。言葉は苦手な子たちである。ただ内容がほんものであるとき、子どもは耳を傾ける。幼児向きに易しく書き直されたものではなく、難しすぎると思っても原文の文字と韻をそのままに読むのがいいことを私は発見した。歴史の中で練り上げられた古典のもつ力に私は驚く。「般若心経」でも「正法眼蔵」でもいい。大人が真剣に求めて読む本は、子どもの心に響くに違いない。私は子どもに本を読む時を「人類の世界史」の時間と呼ぶ。覇権を争う現代において、民族、国家を超えて、人間の精神の根源に触れるから、この子たちがもともと持っている世界にほかならない。いろいろの子どもたちの要望にどうやって応えるかはこれからの課題である。私は子どもたちに励まされてこれをしている。
子どもは一緒に人生を歩み学ぶ仲間である。この子たちは、生活の最前線で、世界の平和の一翼を担う仲間である。言葉を巧みにあやつる大人たちが、混沌の渦の中でなすすべもないこの時代とくに。