どの作品からも、描くこと、表現することの喜びが伝わってきました。
ふつうはなかなか結びつかないような色と形の思いがけない出会い、その出会いにたまさか立ち会って、興奮している子どもの姿が目に浮かぶようです。
もしそれが、頭の中に溢れてしまいそうな世界を抱えている子どもなら、それをしっかりとした形にとらえることができた確信に心穏やかになっていくのを感じることだろうか、などと考えつつ。
見ていく私も楽しく豊かなひとときを過ごさせていただきました。
ありがとうございました。
後日、改めて写真におさめられた作品のいくつかを見せていただいて、そこで触発され出てきたイメージを言葉にしてみました。
佐治 恵
カタツムリはゆっくりだが渦を巻いている。回転している。笑いながら。
歩みはゆっくりなのだが、背中には高速回転の扇風機を装着しているのだ、と誇らしげだ。
歩いている、線といっしょに。
これは道なのだがただの通路ではない。その前に、これは地図なのだ。
壁に手を当てて、足を踏みしめ一歩ずつ確かめながら歩いて行く。
今いるところで、一歩踏み出すことが大事なのだ。
足を組んで、うずくまっているものがいる。目まぐるしくはたらき、じっと見定めている。
からだを少し前にせり出して、考えているのだ。
次にどこに向かおうかと。
もう一息、もう一息、先へ先へと伸びていく。
先頭を切るのは何色だろう。
冷たい壁に手を当てて、自分の今いるところを確かめる。
その場所にじっといてもいいし、そこから歩き出してもかまわない。
でも、よいか、決してあの城の本丸には辿りつけないのだ。
長年にわたって根を下ろした壁のシミである。もう長い間ここにいる。
あまりにも長い時間が経ったので、いつからかここにいたのか覚えていない。
もはや私は壁そのものの要素なのだ。
ピアノは色によってちがう音楽をつくり出す。
このピンクのピアノ、鍵盤はいちばん聴きたい音を奏でてくれるはずだ。
文字の行列。彼らは隊列を組んで歩いて行く。
文字はどこまでも続いていく、どこまでも歩いて行く。
前を行くものと、後ろにつづくものはちゃんとつながっている。
文字とは連綿体なのだ。
からだはむくむくと大きくなる、世界を覆い尽くすまで。
飛沫はからだの一部だ。
自分のからださえほとばしらせて進むのだ。
のぞいている目がある。
でもよく見ると、目は無数にあって、いたるところからこちらをうかがっている。
目はひとつではないのだ。
まるい中心から生まれてくるものたち。ひとつひとつは点(ドット)でしかない。
が、それらの点(ドット)は気づくともう鼓動を始めている。
震動が伝わってくる。生まれようとしている世界が震えている。
触手を伸ばす。その尖端はアンテナ、一歩先を探り当てる。
感知したものによっては容赦しない。
痛いかもしれないぞ。