愛育と私達

 

エッセイ  愛育と私達(2000年4月)()                                           愛育養護学校  卒業生父   沢田 忍

愛育と私達の出会いは昭和58年(1983年)に遡ります。その年の5月下旬、私達は名古屋から東京に転勤して来ました。当時、長女有里(ゆり)は3才で、名古屋では1カ月ちょっとと短い期間でしたが幼稚園の年少組に通っておりました。東京では、名古屋の幼稚園の先生にご紹介頂いた目黒の幼稚園に有里を通わせようと考えていました。
今ではどの様な経緯でその幼稚園の園長より、愛育を紹介して頂いたか正確な記憶がありませんが、その年の秋頃愛育を見学することになりました。たぶん、有里がもうすぐ4才になろうとしているにもかかわらず、未だ言葉が出ず、特殊教育が必要だと判断されたものと思われます。

愛育へは有里・家内・私の3人で、ある土曜日の午後にお伺いし、家庭指導グループを見学しました。教室に入ってみると、そこは乱雑にちらかっており、先生方が生徒達に何を教えている風でもなく、ただ単に生徒達の好きにさせている様に見えました。私達の愛育の第一印象はけっして良いものではありませんでした。「何故子ども達に必要な事を教えないのだろうか?子ども達の好きなことばかりさせているのが本当の教育?」と疑問を持ち、変な学校と言うのが偽らざる気持ちでした。しかし、幼稚園の園長に薦められていることもあり、断わるのも角が立つので、家庭指導グループに通わせてみようかと言うことになったと記憶しております。これが愛育と私達の16年余に亘る長い関係の始まりでした。

私達に取って最も印象的な事は、愛育に行く時は何時も有里が嬉々として、自ら進んで出掛けるということでした。更に、愛育で担任の先生方と一緒にいる時は心から満足している様な笑顔をしていました。まさに、「私の居場所はここだ!」と叫んでいる様でした。その後、有里は家庭指導グループに2年余、小学校6年間、そして卒業から今に至る迄色々な形でアドバイスを頂いております。愛育に対する私達の考え方がどこでどの様に変っていったのか判りませんが、何時の間にか愛育の教育方針に全幅の信頼を置く様になり、先生方にも尊敬の念持つようになりました。

しかし、有里の愛育での生活は、必ずしも平坦ではなかったと思います。小学校3・4年の頃、人間関係に於いて、人をかんだり、たたいたりという事がずっと続づいた時期がありました。私達親にすれば「有里は、しゃべれないから、たたくとか、かむとかしてコミュニケーションの切っ掛けを作ろうとしてるのだろう。」と理解していても、迷惑を掛けてしまった生徒さんやご両親の気持ちを思うと、我が子乍ら、どうしたら良いのか解らなくなりました。そんな時、有里を本当に理解していたのは、私達両親ではなく先生方でした。

有里の良い所も悪い所も全てをひっくるめて受け止めていてくれました。この時の愛育の先生方の有里への対応、そして言葉が私達三人を救ってくれたのです。

更に、愛育は子ども達だけではなく父兄も変える力を持っていると思います。名古屋に居た頃、家内は泣いているばかりいる毎日でした。我が子が障害児かもしれない…、と云う不安に押しつぶされそうでした。しかし、愛育に通い出す様になり、徐々に本来の明るさを取り戻していきました。結果的に、家内は愛育の先生方、そして他の生徒さんのお母さん達との交流を通じて、障害を持つ子どもへの価値観を

180度変え、有里に対しても心の底から優しく接する事が出来る様になりました。有里と家内のそれぞれが、自分に自信を持って歩み始めた様に私には見えました。                    

愛育は本当に不思議な学校です。私だけかもしれませんが、愛育を訪れると何かほっとする気持ちになります。

10年程前、津守前校長が、「今の日本の学校教育は、まず初めに子ども達のあるべき未来の姿を想定し、そこから今何をしなければならないかを決める為、それらに縛られて本質を見失いがちです。むしろ、子ども達とこの一瞬の関係を大事にして過ごすべきです。そして、この一瞬一瞬の積み重ねが自然と子ども達の未来となってゆきます。」と言われていたと聞いた時、この言葉の持つ意味の深さ、そして愛育教育の原点を見た気持ちがしました。生産性のあるものが善であり、非生産的なものが悪であるとする傾向の強い日本社会に於て、実際にこの考え方を実行しているケースは稀だと思います。