愛育養護学校と私達

エッセイ
  愛育養護学校と私達                                                          2002年8月18日 沢田 忍
私達と愛育養護学校の出会いは1983年の初秋でした。
私達には一人娘(1979年10月生)がおります。娘は私が名古屋に勤務していた時に生まれましたが、出産が長時間に亘った為、酸欠状態になり脳の言語野が損傷を受け、21歳になる現在まで、言葉を話すことが出来ません。又、右手に麻痺が残りました。1983年5月に転勤で東京に引っ越して来た後、3歳になっても言葉が出ない娘の通う幼稚園を探している過程で、たまたま紹介を受けたのが愛育養護学校でした。その紹介を受け、私達はその年の初秋、娘・家内と私の3人で、愛育養護学校を訪問しました。初めて訪問した時、驚いたことは、学校の教室が色々なおもちゃや本などで乱雑に散らかっており、混沌としている状態でした。更に、そこに居る子ども達は先生達と一緒にただ好きな事をして遊んいるように見えました。先生達も特に読み書きや躾を教えるわけでもなく、ただ単に子供の好き勝手にさせて遊ばせているばかりで、何も教えていない様に見えました。
私と家内は、これが障害児教育かと内心がっかりしました。その当時、私達は一刻も早く娘に言葉や読み書を教え、普通の子供の様にしたいと願っておりました。
その時、対応して下さった先生が私達に校長を紹介してくれました。校長先生と呼ばれて挨拶にこられた方は、その時まで一階のホールの片隅の大きな滑り台の下で、小さな女の子と遊んでいた50代の男性でした。
私はその前からその男性に気付いていましたが、その男性が校長とは全く想像できませんでした。その身なりはまさに用務員さんのようで、着る物には全く頓着していないようでした。
紹介されて初めて、その男性が校長と分り、内心驚きました。まさに、それが前校長の津守先生との最初の出会いでした。今となっては、その時、津守先生とどんな言葉を交わしたのかは記憶にありません。
ただ、応対して下さった先生に、「どうしてここでは子供達に読み書きなどを教えないのですか?」と伺うと、「子供達の持っているものを伸ばす為に、興味があることを自由にやらせています。特別に読み書きだけを教えている訳ではありません。」とのお返事に、変な学校という印象を持ったので、「入れさせて頂くかどうか、ちょっと考えさせて頂きます。」と言って、帰途についたのを憶えています。
その後、家内と相談した結果、娘を毎日家に置いておく訳にもいかないので、気が進まないが試験的に愛育養護学校に通わせようかということになりました。当時、愛育養護学校は年少の子ども達の為の家庭指導グループと小学部から構成されており、娘を家庭指導グループに入学させました。
これが、19年余に亘る長い関係の始まりになるとは、私達には全く予想出来ませんでした。その後、娘は家庭指導グループの約2年半と小学部の6年間、そして22歳となった現在でも、時折、料理などをして以前の担任の先生方やボランティアの方たちとのコミュニケーションを楽しんでおります。昨年、たまたまその料理を召し上がって下さった津守先生から、「有里さん(娘)は料理が上手だから、きっとレストランを開けますよ。」と優しく言われたのを、娘は全身耳になって聞いておりました。表情には全く出しませんでしたが、内心嬉しくて仕方がない様子でした。
さて、娘が愛育養護学校に通うようになった後、愛育養護学校に対する私達の考え方がどこでどの様に変わっていったかは、今では確かな記憶にありませんが、いつの間にか愛育養護学校の教育方針に全幅の信頼を置く様になり、先生方に尊敬の念を抱くようになりました。私達夫婦にとって最も印象的なことは、愛育養護学校には、いつも娘が嬉々として、自ら進んで出掛けるということでした。更に、先生方と一緒にいる時は心の底から満足している笑顔をしていました。まさに、「私の居場所はここだよ。」と叫んでいる様でした。
私達の娘だけではなく、愛育養護学校では、全ての子ども達が先生達との時間を心から楽しんでいるように見えました。他の父兄の方々からも「うちの子も、ここに来ると嬉しそうな顔をするんですよ。本当に通うのを楽しみにしています。」ということを聞きます。
娘は愛育養護学校を卒業した後でも、日曜日や祭日に私と外出すると、黙々と私をリードしてバスに乗り、愛育養護学校に足を向けることもしばしばでした。又、今でも時折、愛育養護学校の遠足や旅行のビデオを何回も繰り返して、楽しそうに見ております。
しかし、娘の愛育養護学校での生活は必ずしも平坦な時ばかりではありませんでした。小学部3・4年生の頃、娘は他の子供達を噛んだり、叩いたりということがずっと続づいた時期がありました。
私達、親にすれば「有里は、しゃべれないから、叩くとか、噛むとかして他の子ども達とコミュニケーションのきっかけを作ろうとしているのだろう。」と理解していても、迷惑をかけられた子供さん達やご両親にすれば、どうして先生達は、娘のこのような行動を長期間放置しているのだろうと、疑問を持たれたようでした。その後、娘の事が、他の父兄の間で大きな問題となり、校内の空気がゆれ動きました。先生方は父兄の間の率直な話し合いの場が必要と判断され、直ちに娘のことに関して話し合いの場が持たれたことがありました。それは迅速な対応でした。
私達にすれば、皆様の気持ちを考えるとどうしたら良いのか分らなくなりましたが、そんな時、娘の気持ちを本当に理解していたのは先生方でした。
先生方は娘の心の奥から発する叫び、そして、彼女の良いところも悪いところもひっくるめて受け止めてくれました。
先生方は、集まられた父兄に対して、娘の行動の意味するところを学校がどの様に捉えて対処しているのかをきちっと説明して、「有里ちゃんを愛育として、責任を持ってそのまま受け止めます。」と言って娘の尊厳を守って下さいました。もちろん、愛育養護学校では、特定の子どもに対してだけ、このような扱いをするのではありません。どの子供に対しても全く分け隔てなく、一人の人間として接し、「その時に必要なこと」が大切にされます。
「全ての子供を一人の人間として見て、その一人一人の子どもの尊厳を尊重する。」との精神が全ての先生方に理解されており、当たり前の様に実行されています。
そういった先生方の姿は、障害をもった子どもに対する大人の考え方をも変える力を持っています。
名古屋に居た当時、家内は泣いてばかりいる毎日でした。我が子が障害児かもしれない…、と云う不安に押しつぶされそうでした。しかし、長女が愛育養護学校に通い出すようになり、徐々に本来の明るさを取り戻すことが出来ました。家内は先生方や他のお母さん方との交流を通じて、障害を持つ子供への価値観を180度変え、娘に対しても心の底から優しく接することが出来る様になりました。同時に、失いかけた自信を取り戻したように見えました。家内同様、他のお母さん方も障害を持っている子どもへの考え方を変えることが出来、自分の子どもの存在意義に気付かされているようです。
又、それぞれの父兄が子ども達と同様に、何時の間にか愛育養護学校を心の拠り所としているようです。
愛育養護学校には中学部がありません。その為、小学部を卒業した子ども達は公立の養護学校の中等部に行かなければなりません。娘の小学部の卒業が近づくにつれ、私達は、愛育養護学校を離れることに、非常に不安を覚えました。そんな時、先生方から、「愛育養護学校で育った子ども達は、どこに行ってもちゃんとやっていける力がありますよ。大丈夫ですよ!」と言う言葉で元気付けられ背中を押されて、娘を都立の養護学校の中等部に入学させました。ところが、どうでしょうか、私達の不安に反し、娘は入学すると最初こそ色々戸惑ったものの、学校好き人間になり、毎日喜んで通いだしました。更に、驚いたことには、先生達から、「有里ちゃんは、不自由な右手も使って自分で工夫して色々なことをすることが出来るんですよ。」と言われました。又、娘は他の学年の先生達とも自らコミュニケーションを求め、時々先生方の部屋を訪ねていた様です。その先生方からも、「有里ちゃんは状況に応じて、その場にあった適切な態度を取ることが出来るので、ビックリしています。本当に物事が良く分っていますね。」とも言われました。
この時、私達は愛育養護学校の教育の目指しているものが初めて見えてきたように思いました。まさに、愛育養護学校で、子ども達が一人の人間として大切にされ、心を伸び伸びと育てられた結果、知らず知らずの内に、それぞれの子どもが自立した豊かな心を持った人間に成長することが出来ていたのです。
愛育養護学校では、特定の型にはまった授業はなく、それぞれの子どもが自分の好きな料理・水遊び・砂遊び・絵画・音楽等を納得ゆくまですることが出来ます。先生達も辛抱強く、子ども達が思う存分好きなことが出来るように対応します。これは一見無秩序に見えながら、この経験を通して子ども達自身が、満足感を得つつ、自然に色々なことを自ら考えて自ら行う能力を身に付けることが出来るのだと思います。
最近、愛育養護学校に米国人のお子さんが通っています。彼女のご両親はとても敬虔なクリスチャンですが、彼らが私に、「愛育養護学校では聖書で示されている以上のことが自然に行われている。このような素晴らしい障害児教育は今まで見たことがない。」と絶賛されていました。
このことを、岩崎校長に伝えると、「私達は当たり前のことをしているだけよ。そんなすごいことなんかしていないのよ、ただ子ども達の心を大事にしているだけよ。」とおっしゃっていました。又、他の先生方とお話しすると、「私達の方が逆に子ども達に教えられているのよ。」と一様に子ども達に感謝の念を示されます。
今から約13年前、津守前校長が「今の日本の学校教育は、まず初めに子ども達のあるべき未来の姿を想定し、そこから今なにをしなければならないかを決める為、それらに縛られて本質を見失いがちです。むしろ、子ども達と一瞬一瞬の関係を大事にして過ごすべきです。そして、この一瞬一瞬の積み重ねが自然と子ども達の未来となってゆきます。」とお話しされましたが、この考え方は、岩崎校長となった現在でも脈々と引き継がれています。
津守先生は平成6年3月に愛育養護学校を退職されましたが、平成11年4月に愛育養護学校が、東京都より学校法人愛育学園愛育養護学校として認可されたことに伴い、愛育学園理事長に就任されました。
以上
注:このエッセイはミネルバ書房発行の雑誌「発達」No.88,Vol.22に2001年10月に掲載された記事の抜粋です。