教養講座でピノキオを読む

エッセイ  教養講座でピノキオを読む (愛育養護学校だより 2003年7月号より)
津守 眞 (当時)学校法人 愛育学園理事長 (現在)学校法人愛育学園 顧問

  

長年この学校で担当してきた毎月の教養講座で、先月、私はピノキオをテーマとしました。そのきっかけはOMEP(世界幼児教育・保育機構)イタリア委員会会長のジュリアーナ・リミティさんが日本に来られてイタリア文化会館でなされた「ピノキオ」の講演にあります。ピノキオはジェッペットじいさんが木で作った操り人形ですが、何度も親に反抗しながら遂に人間になるというお話です。少年期の精神の成長が主題で、少年の精神を養う文学の価値を私は考えさせられました。原作はカルロ・コッローディによって1881年に書かれました。ピノという語はイタリア語で松という意味だそうです。私は小学生のとき父にピノキオの本を買ってもらい、「嘘をつくとピノキオのように鼻が高くなってしまうよ」と言われたことが長く記憶に留まっていました。リミティさんはそれはあまりに道徳的な解釈にすぎると言います。少年は自分で考えて何かをやろうとし、いたずらし、嘘もつき、想像し、冒険し、それが大人の常識に合わないで、いろんな目に遭います。警官に捕まって牢屋に入れられたり、大きな魚に飲み込まれたり、でも自分で考えてしたことだから、めげることなく結果から学んでゆきます。
私は愛育養護学校の子どもたちを重ねて考えました。乳幼児期には、言葉を話さない子どもが内心で望んでいることを日常生活の行動から察してきめこまかく答える保育に重点を置きます。その基礎の上に子どもの意図、計画、想像や夢が形をなして少年期になります。一貫して必要なことは、子どもが周囲の人々と社会から承認され、価値を認められ、自尊心を高められることです。それがないと、押さえ付けられて歪んだ行動、ぎこちない振る舞い方になります。私はこの学校の子どもたちがどこまでも伸びやかに生きていることを、それが大人になるまで引き継がれているのを見て嬉しく思っています。障碍を持つ子どもは何もできない子どもだと考える偏見や差別は、家庭や学校にもあり、社会全体に染み込んでいます。それどころではない、この子たちは美に対して、人に対して、皆が感心するほどのセンスをもち、皆の中に和を作り出す力をもっています。
少年が冒険心をもって外に出て行くのにより所となる精神の備えを、どう作ったらよいか。日々の大人の生き方が大きな力をもちます。その上に、少年の精神を養う少年文学に目をとめる必要があると思います。字を読めない子どもたちには読んであげたり。ビデオだけではなくて、抑揚と間をもって直接に。それは大人自身の精神が高められる読み物でなければならないでしょう。私が教養講座で少年文学を取り上げたのははじめてです。今回ピノキオと出会って、現代にとくに必要とされている人間の精神の成長について、考えました。