打ち込む仕事をもつこと、尊敬しあうこと、互いの自由を認めること

エッセイ  打ち込む仕事をもつこと、尊敬しあうこと、互いの自由を認めること (愛育養護学校だより2004年7月号より)
     津守 眞 (当時)学校法人 愛育学園 理事長 (現在)学校法人 愛育学園 顧問
日々生きる場に穏やかな優しさが溢れ、人の心の中の善きものを励ます空気が周囲に満ちている、学校も家庭も本来そういうものだろうと思います。
昨年のイースターに、私が子どもの仕事をするに至った契機を開いてくださった先輩であり師である山枡雅信さんが亡くなり、最後の著書、「信仰・研究・教育」を頂きました。その巻頭に、内村鑑三による『家庭の建設』を引いて次のように書かれています。
清純な幸福な家庭というものはいかに望ましく価値あるものであるか。そしてこれを建設するには、第一はよき仕事に家族がそれぞれ打ち込むこと、第二は高尚なる目的を持つことにより、家族が互いに尊敬しあうこと、第三は善き自由を互いに認め自然に溢れる清き愛を涸渇させないことである」と。山枡さんはこの原稿を大切に思い、最晩年には寝る時にも抱きかかえておられたとのことです。ここに述べられていることは、家庭の基本であるけれども、また、学校の基本であります。第一の点、家族のそれぞれが自分を打ち込む仕事を持っていること、学校ではこれは遊びに相当します。それぞれの子どもが自分を打ち込んで遊ぶことを持っていないときには、どんなにカリキュラムが整っていても生きた学校にはなりません。第二の点、高尚な目的は、子どもの場合は感動と置き換えていいでしょう。生まれて間もない子どもは雲の透き間から射す太陽の光に感動し、高いところに手を伸ばそうとします。そこに子どもの感動があることに気が付くと、子どもへの尊敬の念が生まれます。子どもの生活には感動が満ちています。第三に、善き自由を互いに認め合うこと。音に敏感な子ども、動きに敏感な子どもなど、人はひとりひとり資質が異なります。子どもが感動を持ってしていることには、優劣上下はありません。家庭でも学校でも同じです。
もう半世紀以上むかしのことですが、内村鑑三の愛弟子だった山枡雅信さんのご両親が、幼くして亡くされたお嬢さんを記念して、都立大学駅の近くで日曜学校をはじめられました。私は10歳の時、父に連れられてその日曜学校に通いました。そして後に大学生になって専門に児童研究をはじめたころ、毎日曜日の午後いっぱいそこで子どもたちと遊ぶ生活が数年間つづきました。そのとき、今の愛育養護学校の前身である特別保育室の子どもを連れて行ったこともありました。そのときから、人の価値は能力の上下によってきまるのではないことを心に沁みて確信したのです。
それから何十年もこの学校の教育の実践にたずさわるようになって、それぞれに違っている子どもたちの善き自由を認め、自然に溢れる清き愛を枯渇させないようにと(オーバーな言い方ですが、大人は自分にこう言い聞かせないと惰性に流されてしまうことがあるのです)お互いに努めるとき、大人と子どもがひとつになって互いに学び合う学校がつくられるのを見ることができました。最初に掲げた内村の文章は、若い人を含め、時代を超えて、家庭にも学校にもあてはまります。子どもが育つのに欠くことのない点を指摘しています。(山枡雅信さんの専門は流体力学です。)