わたしの出発点

この3月、私は6年間に及ぶ愛育での実習生生活に幕を引きました。私が愛育を訪れたきっかけは、前年度愛育で実習をしてきた大学の先輩方が開いてくれたガイダンスで聞いた「大学に入ってまだ自分は何もしていないなぁと感じている人がいたら、是非1回、愛育に行ってみて下さい。きっと何かが見つかると思います」という言葉でした。
初めて訪れた愛育は、言葉にならない驚きと戸惑いの連続でした。あたかも好き勝手なことだけをしているかのように見える子どもたち、誰が職員で誰が親で誰が実習生なのか全くと言っていいほど分からない無秩序の世界。「じゃあ、子どもたちと一緒に楽しく過ごして下さい」とスタッフには笑顔で放り出され、不安いっぱいの中、私の実習が始まりました。
おんぶに抱っこ、そして噛みつかれたり叩かれたり。1日が終わる頃には、新しく持っていった保育着は泥だらけになり、髪の毛や下着の中にまで砂が混じりました。私はここで一体何をしているんだろう?何をしたらいいんだろう?そんな思いでいっぱいの中、私の手を引き、愛育での生活のいろんな場面を見せ教え、そしてとびきりの笑顔をむけてくれたのが子どもたちでした。「ここにいていいんだよ」と子どもから伝えてもらえたと感じたとき、私は本当に安心してリラックスして楽しんで愛育で過ごすことができるようになったのです。
一人一人の子どもが自分の存在を認め、信じ、その子らしく生きていくための支えとなる。それが愛育で学んだ保育の姿ですが、私はこの6年間、まさにそっくりそのままそうやって子どもたちに支えてもらってきました。私は今でも自分が愛育で保育をしていたとは思えていません。私が愛育でしていたこと、それは自分と向き合うことです。子どもを前にする時、何かに出会う度、様々に揺れ動く自分の心を感じました。それまでは敢えて言葉にすることもなく何となく流していた自分の感情、価値観、欲望、それらを子どもと過ごす中で必死に伝えようと考えることで、私は新しい自分をたくさん見つけました。子どもからされた行為が自分にとって不快なものであった時、それをその子どもの行動が間違っている・おかしいと子どものせいにし、否定してしまうことは簡単なことです。でもそこで、嫌だと感じる自分をもう一度見つめ直してみる。そうすると不快の理由が子ども行為だけではなく自分の価値観にも起因することがよく分かります。そうして気づかされた自分の価値観も、本当に今自分が大切にしていること、しようとしていることなのだろうか?とまた一歩考えることで、新たな自分を築くこともできました。そんな風に自分と出会い向き合うことを、ずっと側で支えてくれていたのが愛育の子どもたちであり、愛育で出会った多くの人たちです。
4月から始まった新しい生活に、私は新たな不安を抱え恐れを感じています。それでも愛育で過ごした日々を通して見つけることができた、感じてきた「自分」を、たとえどんなにちっぽけでも見失わずに信じていこう、信じていけると思っています。
6年生の卒業を前に「別れ」という言葉を耳にする機会が増えました。確かに愛育養護学校で過ごす時間には私は一旦お別れを言ったことになるのでしょう。けれど愛育で出会った子どもたち、人々とのつながりは、ここが出発点となり形を変えつつもこれからもずっと続いていくと思っています。そしてそれが今はとても楽しみです。
実習1年目を終えたとき、同じように下級生へガイダンスをした私の口からは「1度行っただけではきっと訳が分かりません。でも3回ぐらい行くとやめられなくなるぐらい魅力的な何かを見つけることができると思います」という言葉が出てきていました。その何かに惹かれて通った6年間。この6年で互いに育ち合った確かなものを出発点に、これからもどうぞよろしく、そんな気持ちで今